100年以上前に新潟で栽培が始まった「幻の西洋なし」。生産量も少なく、約1ヶ月しか市場に出回らない高級果実です。収穫後約40日かけて貯蔵庫の中で追熟され、「西洋なしの貴婦人」と呼ばれるにふさわしい芳醇な香りと、とろけるような食感が特長です。
果物が記憶する風土
新潟県のなかでも信濃川と中之口川の周辺には、桃・ぶどう・梨の果樹産地が多く、その歴史は古い。大河の氾濫でできた肥沃な大地は果樹栽培に適した地質を備え、立ち木は洪水にあっても水に強いことから、藩の奨励もあり江戸中期から盛んだった。とくにル レクチエ農家の小池さんのお宅がある東萱場から茨曽根は、中之口川の堤防に沿って集落があり、川側の至るところに果樹園が複雑に入り組み、果樹産地としての歴史が感じられる。
1912(明治45)年発行の『新潟県果樹要鑑』には県下の果樹栽培の歴史と今後の展望が語られ、行間から当時も今も変わらない産地の意欲を垣間みることができる。小池さんの祖父、左右吉氏の西洋なしの栽培も詳しく記され、ル レクチエ発祥の道しるべになっている。
はじまりは明治期に
「当時の東萱場村(現新潟市)は、日本梨の大生産地でしたが不景気で梨が売れなくなり、捨てるのは勿体ないということで、ウラジオストク(ロシア)に輸出しようとしました。ところが日本梨では採算が合わず、かわりに西洋なしなら売れることがわかり、輸出しようとしたんです。農協のような組織をつくり、周辺の村や新発田方面の資産家から資金を集め、1903(明治36)年頃から、いろいろな品種の苗木を輸入し園地に植え、輸送専用の木箱をつくる木工所まで作り、どんどんやりました」と西洋なしの栽培のきっかけを語ってくれた小池さん。その時に輸入した西洋なしの品種は34品種にもおよび、そのなかにル レクチエがあった。こうして幸せの種が、新潟に蒔かれた。
左右吉氏が、フランスから取り寄せたル レクチエの穂木を早生赤という台木に接ぎ木した古木は、樹勢が弱り周囲を心配させたが、樹木医や地域の栽培農家の応援で適切な手当がほどこされ、少しずつ元気を回復している。
※記事中の内容は取材当時のもの(広報誌ふうど2012年秋号 第18号掲載)